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村上春樹氏の言葉に寄せる印象は

おはこんにんわ、blogerです。

世界的に知名度のある小説家村上春樹氏は作品をこれまでに出してきている。僕がはじめて手に取ったのはノルウェイの森、だったと思う。それから何冊かは読んでみた。

そして、村上春樹氏の作品に対して読みにくいと感じた事はめったにない。文章がなんというか、基本的かつシンプルな文法、構成であるという印象でもちろん暗喩がわかりにくいとか、音楽知識や映画知識が唐突に出てくるとかはあるが、そもそもは日本語の意味するところを明確にしながら書かれていると感じる。

しかし、言葉に関する印象、言ってしまえば信頼を村上春樹氏のそれに持つことはハバカリがある。うーむ、このあたりは難しい問題で、個人差もきっとあろうと推測する。読みやすさに便乗するかのように言葉たちがポツポツとインプットされていってるように思われるのです。

先日、朗読をしている動画に出くわしました。それは「自己とは何か(あるいはおいしいカキフライの食べ方)」についての村上春樹氏の文章を何かし(AIか?)が読み上げているYouTubeでした。そして、小説家とは多くを観察し判断を少なく控える人達のこと云々とあります。おそらく村上春樹氏もそういう趣向があるとつまりーー判断が少ないというのは村上春樹氏自身のことだと思われます。

いっぽう、村上春樹さんはどこか別の媒体多分エッセイかと思われる、で、自身が頑固で偏見にあふれたとまではいかないけど水を含んだスポンジのように(ぜったい言ってない)それらを持ち合わせているみたいなこと(的なこと)をお書きになっていたと僕は記憶している。

偏見というのは判断の一部らしかろうと思う。とすると、判断をさしひかえる傾向にあるのか、独自の判断を多く持ち合わせている傾向にあるのか、僕はとても看過できぬ矛盾に遭遇する。

そして危惧する。こういったことがまるで裏地の奥まったところにあるのではないかということを。

街とその不確かな壁はどんな作品ですか??

最後まで読んでくれてありがとう

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